心道 別作朱 11.1尺 朱口巻 籐握り

竿師をざっくりと、その作品の特質から柔と剛に分けるとすれば、心道は後者に入るイメージが強いのではないだろうか。

もっともこれには、私の保有する唯一の心道「別作朱 11.1尺 朱口巻 籐握り」がしっかりした竿であり、個人的印象が大きく作用していることは否めない。



その心道は幼い頃から釣りと物作りが好きで、さらに兄の水連が紀州へら竿の世界に身を置いていたことから、自然と同じ道へ歩み出したという。

水連の師は大文字五郎で、この一門には櫓聲一文字という斯界の俊峰がいる。

しかし、心道には至峰への傾倒が見られるとの評があり、実際、それはまず握りの作りに顕著に現れている。


一方、へら竿のもっとも重要な特質である調子については、上に述べた通り私の振ったことのある心道は一本のみゆえ、これに基づく感想しかご紹介できないのだけれど、初めて手にした時はかなり硬く感じ、軟かい竿の好きな私は、「これは失敗したかな、」と正直思った。

そして魚を掛けても、確かに強いのである。

しかし、決して強引に魚を上げ寄せるのではなく、必要な場合は相手の動きに応じて撓みながらも、あくまで主導権は確保したまま、適度なところで魚をこちらの意に沿わせる――といった感じなのだ。

従って釣り味の点でも申し分なく、また、私の常に使用する細仕掛けでも、ハリス切れの経験もほとんど、いや全くない。

振り調子は弱く感じるのに、掛け調子は強い竿――とは、ある意味対極に位置すると言えるかもしれない。



さて、これが至峰の特質に通じるかとなると、私にはそれを論じられないことを白状せねばならない。

なぜなら、私は至峰も一本しか保有しておらず、しかも、これは至峰本来の調子、いわゆる至峰調とはかなり異なる特質を具えている(らしい)からである。

ただ、そんな比較をするまでもなく、この「別作朱 11.1尺 朱口巻 籐握り」が、一個の見事な作品と見做せるということは、自信をもって言える。


最後に、この竿に惹かれた点を一つ挙げておきたい。

それはごく些細なことで、脇銘ともなっている朱漆による口巻きである。

家で眺めてももちろんいいのだが、釣り場に臨ませると、水の色と竹の地、そして口巻の朱が、得も言われぬ対照を見せてくれる。

この朱で段巻きを施した竿もあるけれど、こちらはやや煩い感じがしてならない。

そこまで広く朱を用いるのであれば、寧ろ総塗りの方が、個人的には好もしく思う。

無論、これは好みの問題であって、良し悪しを論じるつもりは毛頭ない。

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