へらぶな釣りの四季―春
春の訪れの遅いこの地方でも、桜の便りはほぼ届き尽くした感がある。 もっとも、山の上の花が開くにはいましばらくの時を要するし、そもそも我が家の周りには染井吉野の艶姿は見られず、山桜がその可憐な面差しをひっそりと覗かせるのみだ。 春のへらぶな釣り――というと、世間ではいわゆる乗っ込みの大型魚を狙うというのが定番のようだが、個人的にはこれに心を躍らせたことはない。 別段斜に構えてのことではなく、本サイトの他の記事をご覧頂けばお分かりの通り、魚を釣ることよりも釣り竿を使うのが主眼の自分にとっては、掛けた魚を引っこ抜くような釣り方、必要以上の量目釣りは百害あって一利なし、しかもそれが生物にとって最も重大な営みに付け込んでとなると、気は引けこそすれ、血の騒ぐことはないのである。 それに私の場合、行く釣り場が限定される――というより自ら限定する――傾向が強く、それらの池ではそもそもほとんど乗っ込みが見られない。 しかし、そんな一大祭典に惹かれない野暮な心も、春の釣りはやはり心の浮かれるものである。 秋とは反対に、春分を頂点として日毎に昼が長くなり、それにつれての気温の上昇、延いては植物の芽吹きとその色調の深化、鶯の唄の稽古をはじめとする鳥の囀りの高まりなど、動植物の活動が盛んになっていくのを感じるのが愉しくないわけはない。 もちろん魚の活性も上がって浮子の動きも活発化するが、個人的にこちらをあまり歓迎できないのは、大好きな静と動とのコントラストがぼやけてしまうためだ。 そこに小魚の突つきまで加わってくると、少々嫌気を禁じ得ないところだけれど、それもまた風情と割り切って釣りに臨み、上手くアタリを拾えた時の喜びも捨てがたい。 散った桜の花弁が水面を揺蕩う様子を眺めるのも風情深いが、人心とは現金なもので、それが自分の浮子にまつわるとなると苛立たしい。 いや、決してアタリを見落として釣れる魚を逃すのが悔しいのではない、絶対にそうではない…… 冬の間は凍結して釣りのできないこの地では、春が文字通り釣りの季節の幕開けとなる。 毎年その前から気持ちの浮き立ちを覚え、実地に春の釣りの情趣に浸ろうと思うのだけれど、ここ数年、今年もまだ出掛けてはいない。 現今のコロナ禍が鎮まった暁には必ず――