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孤舟(二代目) 飛びぬけ純正鶺鴒 1974年作 14尺 節巻 綿糸握り

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孤舟という銘を知ったのは、竹竿に興味を持ち始めて間もなくのことだった。 その理由は、紀州へら竿のことを調べている際、折に触れて幾度となくこの銘に出会ったためで、これは取りも直さず、孤舟の斯界において占める位置の重要性を示していると理解した。 すると当然、それを手にしたくなる訳だが、遺憾ながら価格を気にせず何でも購入できるような身分ではなかった(今もそうでない)ので、その点に注意して見ているうち、付されている値に大きな差異のあることに気付いた。 値が広い範囲に亘っているというより、価格帯が大きく二つに分かれていたのだ。 このような事象の生じている理由は何か?との疑問は、幸いすぐに氷解した。 そう、「先代」と「二代目」の違いに基づくものだったのである。 以前にもどこかで書いた通り、私の嗜好は、できるだけ色々な竿師の作を手にし、振り、釣り味を感受したい――という方向へ傾いている(櫓聲だけは例外となったが)ので、先ずは二代目の作品を目当てとすることにした。 これには、価格という大きな要素の他に、先代の作品も1960年代末以降の晩年のものは二代目が穂先削りを担っていたとの情報を目にし、そもそも曲がりなりにも孤舟を襲名しているからには、二代目の竿も機能性・風趣両面においてその基本的な完成の域に達しているはず――と考えたためもあった。 そして出会ったのが、この「飛びぬけ純正鶺鴒 1974年作 14尺 節巻 綿糸握り」である。 孤舟の通常作の中では高位等級に当たる飛びぬけで、さらにその中でも特に意に即した作品に付されると言われる「志」の文字も刻されていた。 調子も私の好みに即した、胴に乗せて魚をあしらう基本調たる純正鶺鴒、そして価格もそこそこだったことから、飛びつくように購入した。 実物を手にしてまず驚いたのは、その軽さである。 それまでに手元に集まっていた竹竿はすべて、十二尺程度の中尺にしても、持つと手にそれなりの重量感を覚えるものだったのに、この孤舟は五継で十四尺の長さにももかかわらず、まるで同尺のカーボンロッドと見紛うほどで、孤舟の特徴としてそれまで度々目にしていた「先に抜けた」という修飾語の意味するところが、瞬時にはっきりと会得できた。 振り調子も申し分なく、全体的に細身なこともあり多少の風ならほとんどストレスを感じることはなく、アタリに合わせた際の水切り感も秀逸で

櫓聲 破傘 青春 15.8尺 口巻 籐握り

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「 櫓聲―脇銘の変遷 」にてご紹介したように、櫓聲は1982(昭和57)年、49歳の時に「五十七年特別作」を世に送り出したが、その製作に全身全霊を傾注したことが主な原因となって体調を崩し、以後三年間、竿作りを休業することとなった。 そして、復帰作として1985(昭和60)年に発表されたのが、調子分類は先の青春・朱夏・白秋・玄冬を踏襲した、新たな脇銘「破傘(やぶれがさ)」である。 この脇銘は、自らの漆の技術をさらに磨くべく、北陸は輪島塗の塗師の工房を訪れた櫓聲が、その道を極めた匠の技の高さと深さに圧倒され、茫然自失の体で辿った帰路、雨の降ってきたことにも気付かず濡れそぼった経験に基づくものと言われている。 人によっては、「櫓聲は五十七年特別作で精魂を消尽し、それ以後の作品には見るべきものがない」と宣う向きもある。 しかし、私はこの言に与しない。 遺憾ながら私は五十七年特別作を所有しておらず、手にしたことも目にしたこともないのでそれとの比較はできないけれども、少なくともそれ以前の作、すなわち「春夏秋冬」「秋江」「竹露」「竹露流」に比して、破傘は優れた点こそあれ、決して劣るものではないと感じている。 そしてこれは、後続する脇銘についてもまったく同様だ。 これら私の感慨の誤りでないことは、破傘でまた尺単価が一段と上がったにも関わらず、依然として――いや、より一層――櫓聲の愛好者が増加し、以後さらなる急騰を招いた事実が裏打ちしているのではなかろうか。 尺単価三万円もする「駄竿」を進んで買うような物好きはないであろうし、仮にいたとしても極々少数にとどまるはずで、評価を上げるだけのモーメントは持たないはずだ。 私の所有する「破傘 青春 15.8尺 口巻 籐握り」は、その長さもあって、青春にしてはやや軟らかめで、振ったところは正直なよなよと頼りない印象を否めない。 しかしながら、いざ仕掛けを穂先に結んで振り込めば、まるでこちらの意図を竿が察知したかの如く、狙った位置へピンポイントで運んでくれるし、魚が掛かった時の、一本芯が通ったかのような豹変ぶりも、正に櫓聲であり、またそれ以外の何物でもない。 ところで、輪島塗に接したことによる影響、櫓聲の漆の技術の発展は、破傘の奈辺に見られるのか――との問いが聞こえてきそうだが、正直なところ、はっきりしたものは感知されない。 が、このこと