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瑞雲 闇からす 高野竹 11.6尺 口巻 綿糸握り

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工芸品と評して恐らく異論は出ないであろう紀州へら竿の世界では、その製作技術は人から人へと直截的に伝えられる。 その最も基本的な伝承形態は、親から子へというものであり、実際、父や祖父を師として斯道へ入り、修業を積んで一家をなした竿師も少なくない。 しかしながら、師匠と弟子、それぞれの性格や考え方、さらには相互の関係により、竿師の親を持ちながら、敢えてその教えを乞うことなく、少し距離を置いた親類や親の知人、時にはさらに遠く、縁戚関係のない人物に師事する例もまた普通に見られる。 この辺の話題、特に二世のあれこれについては色々と思うこともあるのだが、それはいずれ機会があったら書いてみたい。 さて、今回ご紹介する竿の作者瑞雲は、上の後者に属し、魚酔を父に持ちながら、叔父である寿るす美の門下で修業した。 老婆心ながらこの銘について一言すれば、瑞雲とはめでたい雲、仏教において、何かの吉兆として空に現れるとされる「紫色や五色の」珍しい雲のことである。 この最後の色彩感を強く捉えると、華麗優雅な竿、およびそれを生み出す竿師を連想しがちだが、実際の瑞雲は、質実で飾り気の少ない竿がほとんどの、所謂「不器用な」タイプの職人といえよう。 しかし、竿の作りは決して粗くはなく、それどころか、器用でないだけに却って細かな所も疎かにしないのだろうか、あまり目立たない部分の細工の丁寧さに気付いて思わず感心させられることもある。 もう一つの瑞雲の特徴として、どちらかと言えば 鉄心斎 などと同様、硬式の、強い竿を得意とする印象を挙げられるのではなかろうか。 だが、私の所有する、「闇からす 高野竹 11.6尺 口巻 綿糸握り」は、この尺数にしてはかなり細い9.1mmという元径からも想像される通り、完全な軟式である。 そして意匠は、口巻で握りは綿糸と、何ら装飾というべきものもない質素さだが、高野竹らしい斑の入った肌合いを見せることで、自然な趣きを醸し出している。 時代的にかなり前の竿ということもあり、現在の大型化したへらぶなの量目釣りには正直適さない。 しかし、高野竹特有の味わい深い粘りをしっかりと活かしながらも、過度な繊細さは抑えたその調子は、伸びやかな気持ちで魚と遊ぶには至適で、これを見ても、当然ではあるけれど、硬式一辺倒の竿師ではないことが分かる。 それと同時に、このような調子・風合の出し方に、瑞雲の竿

竹虎(魚心観) 甲子 16.1尺 口巻 漆握り

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浅学のためはっきりしたことを書くことができず、誠に恥ずかしくかつ申し訳ないのだが、今回ご紹介する竹虎は確か魚心観(二代目)の別名だったと思う。 さらに、竿本体及び竿袋に記された脇銘らしい甲子についても定かでなく、加えて判読できない五つほどの文字も見える。 釣り竿に限らず、およそ実用品の製作に従事する者の志向は、大きく二つに分けられよう。 あくまでも道具としての本質的部分、機能性や利便性をひたすら追求する向きがある一方、その品に実用性以上のものを求め、見た目の美しさや趣きを添えるべく、さまざまな技法に積極的に取り組む行き方もまた存在する。 この視座から紀州へら竿を眺めた場合、飾り気の少ない、質実な作風を特徴とする魚心観は、上の第一の性格が強い竿師と言ってまず間違いないだろう。 これは敢えて意図してそれを目指したというより、魚心観の人としての質朴な性格、篤実な人柄が竿として結実たとの印象が強い。 そんな魚心観の手になるものとしては、この「竹虎 16.1尺 口巻 漆握り」はやや意匠に凝った一本と言えよう。 それは握りに見られ、魚心観の好む、実用性に優れた綿糸や乾漆ではなく、全体を漆で仕上げた上、さらに草葉を、その風合を残しながら押し嵌めているのである。 この極めて珍しい細工は、単に目を愉しませるだけではなく、手にしっかり馴染んでこの上なく滑りにくい。 すなわち、釣り竿としての用途に実によく合致しているのだ。 実際、絶妙な生地組みと相俟って、長尺ながらまったくストレスを感じることなく振ることができる。 ただ、漆で完全に覆っている訳ではないので、使っているうちにその草葉が次第に剥がれて来ている。 装飾という観点からすればこれは褒められるべきことではないだろうけれど、徐々に古寂びてくるその様子は、使うものに万物流転の摂理を看取させ、自然と幽邃なる観照へと導いてくれるように思う。 魚心観は、技術上の指導を仰ぎに来た同業の竿師に対して、懇切な教示を与えるだけにとどまらず、自分の使用している道具まで譲渡してしまう場合もあるとの話を聞いたことがある。 このように紀州へら竿界全体のことを慮る人物は、なかなかいるものではない。 その広い度量から生まれた竿ならではの味わいと言えよう。