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へら竿の意匠(1)―塗り・巻き

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へら竿の意匠(デザイン)の中で、最も目立つものと言えば、「塗り」と「巻き」であろう。 この塗りと巻きには、見た目の美しさを得るという審美的な面も無論あるが、竿全体に漆をかけることで、素材である竹を保護し、その質を維持するとともに、糸を巻き付けて補強するという、実用上の目的も大きな比重を占めている。 まず、第一に挙げた、竿全体に漆をかけることは、「胴拭き」または「胴漆」と言われ、すべての竿に必ず施される処置だ。 一般に、胴拭きには無色に近い透明な漆が用いられ、竹の地肌を隠すことはない。 もう一つの、「巻き」は、それを竿のどの部分に施すか、その箇所に応じて、主に節巻・口巻・笛巻に分類される。 天然の竹を素材とする紀州へら竿では、特にこの巻きが極めて大きな意味を持つことは自明であろう。 一本の竿の中で、もっとも負担の掛かる所は継ぎ部、より正確に言えば細い部位を内部に収める太い側である。 へら竿ではここを玉口と呼ぶが、この部分には必ず絹糸を緊密に巻き付け、その上を漆で塗り固める。 この玉口だけに巻きを施したものが「口巻」だ。 巻きの基本となる、もっともシンプルな形である。 しかしながら、伝統的に、へら竿においては「節巻」が標準とされてきた。 「節くれ立つ」という言葉が意味するとおり、竹は節の部分がやや太くなっている。 竹竿の見た目を美しくするには、この節の部分を削って均質な円筒形としたいところだが、そうするとここは当然弱くなる。 これを補強するため、口巻に加えて節部にも巻き処理を行ったものが、すなわち節巻である。 このように玉口と節部だけに巻きを具えた竿も、数は少ないものの見受けられる。 が、実際には、節と節の間の間延び感を消すため、ここに節の部分よりも細めの幅で巻きをあしらうのが標準的なスタイルとなっている。 これは古来、槍や薙刀などの柄にも採用されてきたもので、そこでの呼称を踏襲して「段巻」という名にこだわる竿師もある。 なお、節巻を施す場合、竿の美観をさらに高めるため、以前は節部分のみならず竿全体に亘って表皮を削り落とすこともあった。 一方、口巻竿では、節の部分を削って成型するようなことはなく、したがって先に述べた竿全体の表皮を落とすこともない。 それゆえ、別名「皮付き」と呼ばれることもあり、特に古い口巻竿にはこの名称の付されている例が少なくない。 「笛巻」は

伊集院 旭 12.2尺 節巻 綿漆握り

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その銘から、個人的には紀州へら竿の王道を一直線に歩んできた竿師と勝手に想像していたのだが、実際は竿作りの道を進み始めたものの、すぐに挫折し、15年ほど様々な職業を経た後、再び元の世界へ戻ったという異色の経歴の持ち主が、この伊集院である。 しかし、その手になる竿は奇抜なものではなく、良い意味で紀州へら竿の特質を忠実に踏襲したものと言えよう。 初めは山彦、二度目には秀成と、源竿師・師光両系統の師についたことは、確かに回り道ではあったかもしれないが、結果的に大きな実りをもたらしたようだ。 この「旭 12.2尺 節巻 綿漆握り」は、伊集院の中で高級品に位置付けられる一竿。 さらに上の脇銘に極旭があるけれども、こちらが螺鈿をあしらった華麗な漆握りであるのに対し、旭が概ね実用性本位の綿握りとなっている点を除けば、竿の調子自体に大きな差異はないと思われる。 その実用性に対する意識が強いのか、伊集院は一貫して合わせ穂を採用(付記:本記事へのコメントもご参照のこと)し、先端の結糸部も仕掛けの着脱の容易なリリアンとしているのが特徴。 ただ、合わせ穂といっても、決して、ズドンとした味も素っ気もないものではない。 竿全体として捉えた時、穂持及びその下の部位と緊密に協働し、見事な弧を描き見せてくれる。 無論、視覚的快味だけに止まらず、その釣り味も一級品だ。 どちらかと言えば剛の竿師である伊集院、しかしこの旭は中式本調子の見本とも言える一本で、張りと粘りのバランスが絶妙。 このように何ら不満はないのであるが、伊集院が削り穂・蛇口の竿を作ったら、果たしてどのようなものになるのだろう――との興味は抑えがたい。 いつか、その実現を見る時が来るのだろうか。 いや、現代の釣りの状況からしても、その実現は難しいに違いないが、仮に来るとしたら、ぜひとも手にしてみたい。

短竿・長竿―長さの妙

紀州へら竿の一般的な長さは、おおよそ七尺から十八尺と言ってよいだろう。 無論、これより短い六尺・五尺の竿や、とても片手では扱えないのではないかと思える十九尺以上のものも見かける(櫓聲の二十三尺も目にしたことがある!)が、九分九厘は上の範囲に属すると考えてまず間違いないはずだ。 しかし、強さや調子と同様、いやそれら以上に、竿の長さ――それはすなわち釣り人の嗜好の反映であるが――も時代とともに変わって来た。 その変化は、端的に言えば、漸次短い方への推移ということになる。 昔、魚影が薄く、桟橋も普及していなかった時代には、沖にいる魚まで仕掛けを送るためにどうしても長い竿が必要とされ、自然、釣り人も長尺物を求める傾向が強く、それに応じる形で竿師もそのような竿を積極的に製作した。 先の記事「 竹竿の価格 」に書いたように、紀州へら竿の価格は長さに比例するが、このような価格体系はその時代の情勢に合わせて確立されたものだと言えよう。 ところが…… 時の経つにつれ、へらぶなの放流が盛んに行われるようになり、どこでも夏場には水面に湧くほど魚影が濃くなるとともに、桟橋が整備されてすぐ足元が十分な水深で、手を伸ばせば魚に届く釣り場がごく普通となった。 こうなると、もはや長尺を敢えて使う必要はない――どころか、わざわざ重い竹の長竿を手にしようというのは、変物・酔狂と見做されかねない。 この状況は、現在製作され、世に出る竿の長さに読むことができるが、より如実にそれを物語るのは、中古竿の価格である。 長く使えるという竹竿の特徴から、紀州へら竿の専門店では、新竿とともに中古の竿も取り扱っているのが普通だけれども、それらの価格を眺めると、同じ格の竿なら長尺物は却って安くなっている。 購入者の嗜好がより直接に反映するインターネット・オークションなどではこの傾向はさらに顕著で、短竿には高い値が付くのに対し、長竿にはなかなか札の入らないことが多く、まるで価格は長さに反比例するかのような印象さえ受ける。 今はまさに短竿の時代――と言うべき、いや言わざるを得ないようだ。 しかし…… 現在の釣りの状況においても、長竿も決して悪いものではない、いやそれどころか、短竿にはない、長尺独特の味わいがあるのである。 私も、もちろん短尺も使う。 その取り回しの良さ、魚の動きをダイレクトに感じながら竹の粘り

櫓聲 竹露 清流硬式 15.3尺 節巻 綿握り

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竹露流の次代として登場したのが、この竹露である。 基本的に、その特徴は竹露流を踏襲していると言ってよいだろうが、竿を集合としてみた時、全体的に細身へと移行し、調子がより洗練されたという印象を受ける。 これと関連するのであろうか、調子名が、 竹露流 の単なる硬式・中式・軟式から、竹露ではそれらの頭に清流・強流を付加した形へと移行し、より細かに分類されるようになった。 具体的には、字から想像される通り、強流は強さを感じ、一方の清流は爽味に富む性格で、前者は曲がりの支点を竿の先よりに持ち、後者は胴に乗ってくる傾向があると言えるのではなかろうか。 また、竿に印される「櫓聲」の銘が囲みなしになったことも相違点として挙げられる。 ただし、上記二点は、過渡期の作では竹露流と同様だ。 私の竹竿コレクションの一品、「竹露 清流硬式 15.3尺 節巻 綿握り」は、竹露としての特徴が確立された時代のもので、上の二特徴を共に具えている。 先にご紹介した竹露流と比べると、こちらが粗野とも見える野武士の如き重厚・精悍な面構えを具えているのに対し、竹露の方はおとなしく優美な、貴人を思わせる風貌であり、一見頼りなさそうな印象が否めない。 しかし、どうしてどうして、振り調子はその優美な身のこなしで仕掛けをピンポイントへ運んでくれる一方、魚が掛かると様相が一変、ぴしッと芯が通ったかの如く凛とした態度となり、まったくぶれることなく玉網まで運んでくれる。 製作期間が二年ほどと短かったため、今となってはなかなか入手の難しい竿という事実も、これを持つ者の幸福感を高める一因であると言えよう。

竹竿の価格

竹竿(紀州へら竿)は高い――という声をよく聞く。 確かに、これを入手するのに必要な金銭はかなりの額となることが多い。 しかしながら、コストパフォーマンス(費用対効果)、すなわち、投下した費用に対して得られる効果、今の場合は竿を手にした満足度、釣り味などを考えれば、これは相当優れていると評価できると思う。 また、竹竿を使える期間を見ても、カーボンロッドなどに比べてはるかに長いと言ってよいだろう。 実際、私の手元には、製作されてから既に50年以上経過している竿が何本もあり、いずれもまったく問題なく使用可能な状態だが、カーボンロッドなどでこのようなものはごくまれに違いない。 工業製品たるカーボンロッドにはモデルチェンジ、製品の切り替えがあり、製造が中止された旧製品に故障が生じた場合は、修理や一部の交換はまず無理で、そのままご昇天となるのが普通だ。 それに対して、竹竿は竿師の手により一本々々作られるため、穂先が折れた、魚に持っていかれた、玉口が割れた――といった事故があっても、ほとんどの場合、代替の部材を補って元通り使用可能な状態へ復元できる。 無論、費用は掛かるけれども、新竿を購入するのに比べればずっと安く収まるし、何より、愛着のある品を使い続けられる喜びは大きいものだ。 さて、紀州竹竿の価格は、同一銘同一脇銘のものを同じ店で購入するとすれば、長さに比例する(注:ただしこれは新竿についての話。中古の竿に関しては、別の話題と絡めて改めてご紹介する予定)。 例えば、十六尺の竿は、八尺のものの2倍の値となるのである。 カーボンロッドなどでも、長さが嵩めば使用される素材の量は多くなるし、加工の手間暇も増えるから、当然価格も上がるが、このような比例関係とはならない。 この価格体系から、紀州へら竿の世界では、「尺単価」という言葉があり、これがある銘や脇銘に対する大きな評価基準となっている。 尺単価の幅はかなり広く、特別作を除いた一般流通品に限り、さらに私が実際に目にしたものだけを挙げても、下は5千円ほどから、上は5万円を超える櫓聲などまでにわたっている。 カーボンロッドではこれほどの価格差は生じない一方、茶器などの骨董に目を向ければ、さらに巨大な相違のあることも確かだ。 竹竿に話を戻して、では、それだけの尺単価の違いに見合う価値の差はあるのか――という疑問が自然と生じるが、こ