忘我 別作一峰 14.2尺 口巻 竹張り握り
前記事「芸舟 川波 11.5尺 鶯節巻 綿糸握り」において、芸舟の師は実兄の忘我で、さらに京楽は実弟であるとご紹介した。
因みに、京楽もまた、忘我に入門して紀州へら竿界へ足を踏み入れた。
こうなれば、二人の兄であり師でもある忘我を、当然取り上げぬわけにはいかないだろう。
忘我は、16歳の時に貞石匠の門を叩いて竿作りの道へ入り、1947(昭和22)年6年の修業を経て独立を果たしたが、その時の銘は竿信であった。
現在知られている忘我に改銘したのはそのずっとあと、1971(昭和46)年のことである。
忘我とは、無論、「熱中して我を忘れる」「心を奪われうっとりする」といった意味になるわけだが、私は個人的に、後者はまあいいとして、前者に対してはあまり良い印象を覚えない。
我を忘れる―というのが、自己の煩悩や不純な欲求、不安感などを消し去り、自然と混然一体となることなら何ら問題はないけれど、どうしても、自分の中のおぞましいものを辛うじて抑えていた「我」を忘れ、閉じ込められていた魑魅魍魎を遺憾なく活動させる―事態を連想してしまうのである。
これは遺憾ながら、実際に、釣り場で何度かそんな御仁に出くわしているためだと思う。
銘から受ける言語的印象はこれくらいにして、肝心の竿そのものについて述べよう。
忘我の手になる竹竿は、豊かな美意識に基づく美しい竿作りで知られる芸舟、繊細な感性が生み出す先鋭秀逸な調子で名高い京楽に比べると、若干個性に乏しいと感を否めない。
私の手元にある「別作一峰 14.2尺 口巻 竹張り握り」も、一見したところごく標準的なオチ(竿全体のプロポーション)を持ち、装飾も特に目に付かない一本である。
強いて言えば、竹張りの握りが控えめながら存在感を主張しているくらいだ。
しかし、派手さはないものの、意匠一つ一つの作りは丁寧になされており、目を凝らすとそれが浮き出てくる。
調子について言えば、こちらも顕著な特徴は目立たぬ、紀州へら竿としての中庸を守った中式本調子。
その堅実な生地組みは、釣り人を瞠目させるものではないかもしれないが、それだけに何ら懸念なく安心して使うことができる。
こう考えると、確かに忘我の境へと誘ってくれるよい相方であり、まさに銘に籠められた思いの具現した竿と言えよう。
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