へらぶな釣りの四季―夏

今年、この地方の梅雨入りは6月6日、明けたのは同月27日なので、わずか3週間に過ぎなかった。

もっとも、よくあることだが、その後一度ぐずついた天気が続き、今また戻り梅雨のような空模様となっている。


日が出れば釣り場はもうすっかり夏景色、燦々と降り注ぐ陽射しに水面はギラギラと輝き、周囲の樹々は濃緑に燃え立っているはず――と思いながらも、相変わらず竿に水を見せることなく過ごしている。

マスクなしで釣りができるようになったら出掛けるつもりで、それももう間もなくだろう――と思っていたのに、またしてもコロナウィルス感染者が急増してきたらしいから、数年ぶりの釣りがいつになるやら、その見通しが立たなくなってしまった。


言うまでもなく、今の時季の釣りは非常に厳しい。

もっともこれは、釣果のことではなく、釣る者の心身、特に身体に関してである。

暑さと紫外線に晒されることがその直接の原因だが、何しろ日が長いので欲張った釣りをしてしまいがちとなり、両者が相俟って一日の釣りを終えた時にはまさに疲労困憊、という経験は誰もが少なからずしているはずだ。



釣り自体に目を向けると、魚の活性が高すぎるため浮子の周囲に黒集りし、当然その浮子はひっきりなしに動き続け、掛かった魚は異様に暴れて大騒動をやらかす。

こうなると、私が個人的に求めている静謐幽玄な釣趣など望むべくもなく、「このような活気のある釣りも、時にはいいものだ、」といくら自分に言い聞かせてみても、なかなかその効は生じず、気分的にもげんなりしてしまう。


しかし不思議なことに、そんな私でさえ、後になって思い出す釣りの場面は、圧倒的に夏のものが多い。

遠い昔、子供の時分のことを言えば、夏休みという多大な自由時間があり、従って釣りへ行った機会もその季節に多く、さらに当時は「沢山釣れる」ことに大きな面白みを覚えていたことが、その理由となっている面もあるだろうが、一旦釣りから離れ、数十年を経て再開――というかほとんど新規に開始し、上に述べた思いを胸に重ねた釣行に関しても、やはり夏の出来事を強く思い起こすのである。

しかも、その往年のことにしても、頭に浮かぶのは決して沢山釣った場面ではなく、靄のかかった早朝や炎天の日中の情景、喧しい蝉の声といった、釣りとは直接の関係を持たないイメージとなっている。


そしてこの想起は、音楽を触媒として生じることが極めて多い。

別段、夏だからといってよく音楽を聴くわけでもないことを鑑みても、やはり不思議な感じがする。

よく知られている通り、音楽にはそれを聴いた頃の事々を思い起こさせる力があるにしても。


明るい日差しの下、明瞭なコントラストを具えた鮮烈な景物、その当時耳にした音楽、さらに加えて灼熱の大気……これらに対する、視覚、聴覚そして皮膚感覚の記憶が混然一体となって、夏の釣り――いや寧ろ、釣りをした夏を思い出させるのかもしれない。


今は本当に、日光を木陰に避けた釣り座で、蝉しぐれを聴きながら「活気に満ちた釣り」をしたいと心から思っている。

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