青雲観 わかぎく 9.2尺 口巻 籐握り

青雲観という竿師については、浅学のためほとんど知らない。

現行の紀州へら竿系統図にも記載されておらず、インターネット上にも――この世界では珍しくないことだが――ほとんど情報を見出すことができなかった。

ただ、前者において、忘我の門下に「水想観」という名が見えるので、もしかしたらこの辺りに位置するか、あるいは関係があるのかもしれない。


そのような一竿を購入したのは、竹竿に興味を持ってさほど日月を経ていない頃のことで、何のことはない、そもそも斯界にどのような竿師がいるのかという認識さえなかったからである。


とは言え、もちろん目に付くものすべて、手当たり次第に買っていたわけではないので、惹かれたところがあったのだ。

それすなわち、「胴調子の総高野竹竿」との文言である。

当時、既に総高野の竿は何本か保有していたものの、その中に九尺の短竿、しかも四継ぎのものはなく、この生地組でどのような釣り味が実現されるのか興味を覚えたことに加え、価格がかなり安価だったことにも背中を押された。


現物を手にしての第一印象は、何と地味な竿だろう――というもので、実際、意匠はシンプルな口巻き、そこに蒔絵や螺鈿などが施されているわけでもなく、握りは太めの籐が若干隙間を空けたように巻かれ、竿尻も何の変哲もない形状、さらに言えば、元が太目でどことなく鈍な感じを禁じ得なかった。

そして、四本継の短尺を手にしたのが初めてということもあり、どこか玩具のような感じがして、魚が掛かった時、これで本当にきちんとした弧が描かれるのだろうか――と、些か心許なかったことを覚えている。



しかし、継いで振ってみると、これが実にいい感じで、「粘りの高野竹」との言葉が自然と思い起こされ、上の不安は一掃、早く魚とのやり取りをしてみたいとの気持ちが沸き立った。

さらに、見た目には野暮ったい握りもまた、手にしっくりと馴染んで滑る気遣いは全く不要と確信できた。


これらの印象は実際に水を見せても裏切られることはなく、何とも柔らかく心地よい感触を味わわせてくれる。

型の良い奴の強烈な引きに遭遇しても、しっかりと竿を矯めて堪えれば、よくこれだけ撓むものだと感心している内、相手は自ずと水面に顔を出すのである。

しかも、その撓りは、全くぎくしゃくした所の見られない見事なもの。

従って反りや曲がりといった狂いの懸念もなく、安心して使うことができる。


私の手元にあるのは「わかぎく」だが、他に「つゆぐさ」という脇銘を目にしたことがある。

「わかぎく」が若々しい躍動感に満ちていることからすると、「つゆぐさ」はしっとりとした情調を特質とする作品かもしれない。

ちょうど、櫓聲の青春と白秋に相当するのではないだろうか――そんなことを想像するのもまた愉しい。

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