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10月, 2020の投稿を表示しています

一心竹 特作山城 13.2尺 口巻 籐・乾漆握り

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私が紀州へら竿に魅せられてこの世界に次第に深く足を取られることとなったそもそものきっかけは、「 源一人 煌 10.1尺 口巻 籐・漆握り 」を手にしたことだが、それからさほど間を空けずに続いて入手した「一心竹 特作山城 13.2尺 口巻 籐・乾漆握り」の影響も小さくない。 元々、源一人を入手したのは、「竹竿を一本持ちたい」という程度の気持ちからで、それが叶い実際に使ってみて竹竿の素晴らしさに驚いたことは確かだけれど、そこから直ちにまた食指が動いたわけではなかった。 では何故一心竹を?と言われれば、理由はごく単純、源一人購入の際にその価格一割分の商品券が付けられ、折角なのでこれを利用しようと思ったのだ。 源一人を選択するに先立ち、紀州へら竿にはどのようなものがあるのか一通りは調べていたものの、当然ながらまだほんの上辺を眺めただけ、各竿師の特徴や評価などわかるはずもなく、また再購入の動機も上のようなものだったので、いま一本の選定は主に価格を基準にした。 加えて、源一人が十尺と短いので、少し長めのものがよかろうと考えた。 もっとも、あまり長いと果して使いこなせるだろうかとの懸念があったため十三尺程度のものに的を絞り、その結果見つけたのが一心竹だったのである。 これを初めて振った時、二つの印象を覚えたように記憶している。 まず、流石にカーボンに比べると重い、しかし徒に振り回そうとしなければ決して使い難くはなさそうだ――ということ。 もう一つは、竿を寝かせた時のだらりとした姿に対する違和感である。 第一の印象は、すぐに実際その通りであることがわかった。 片や違和感については暫く継続したものの、ふと気づくといつの間にか全く気にならなくなっており、それどころか偶にカーボンロッドを出した時など、何となくピンと伸び過ぎているように思えてこちらの方に不自然さを感じるようになった。 この感はカーボンロッドとの併用期間を通じて一層明確になっていき、最終的にカーボンロッドをすべて手放すこととなったのである。 もっとも、これらはいずれも中尺の竹竿一般の性質で、別段一心竹に限ったものではないだろう。 では一心竹固有の特徴らしいものは何もなかったかと言えば、確かに感じはしたのである。 しかしそれは、源一人で体験して一驚を喫した、魚が掛かった時に竿が自ら魚を上げ寄せてくれる溌溂さがなく、恰も...

へらぶな釣りの四季―秋

へらぶな釣りでは、「秋はタナを釣れ」と言われる。 すなわち、魚のいる層を見極め、そこに餌が置かれるよう浮子の位置を定めて釣ることが、秋に釣果を上げる肝要事というのだ。 もっとも、これは魚影の薄かった昔の話で、多すぎるほど魚の入れられた現代の釣り場では、浅ダナでも深宙でも、まず問題なく釣れるだろう。 そもそも私は、「 宙釣り・底釣り―へらぶな釣りの多様性 」に書いたように、基本的には底釣り一辺倒なので、上の格言を心に留めているわけではない。 それはともかく、各季節に独自の趣のあるへらぶな釣りの四季の中でも、私は秋が一番好きである。 日に日に気温が下がり、夏のあいだぬるま湯のようになっていた湖水が、徐々に本来の冷涼さと清澄さを取り戻し、それにつれて魚の活性も落ち着いて、暴れがちだった浮子も適度に動きが抑制されてくる。 釣る側にしても、無論、日によって暑さ寒さは感じるものの、それは着るものの按配で解消され、要らぬストレスを感じることなく竿を振ることができる。 それに、何より景色が素晴らしい。 市街地の真ん中に位置する池など、ごく少数の例外を除けば、釣り場は大概自然物に囲まれているから、季節の進みに応じてさまざまに変化する木々の色合いを眺めながらの釣りとなる。 特に、水面に映るそれらの色が、浮子の周りに上手く散るような状況での釣りでは、秋の風情を一層深く感じるものだ。 落ち葉がはらはらと舞うのもまた一興。 ただ、これがあまりに過ぎると、水面に溜まって仕掛けや穂先にまつわるので少々邪魔にはなるけれど。 そうして、まだ温もりを残す午後の日も傾く頃、澄んだ高空を渡り鳥が飛び行く姿を眺めながら、いくらかうら悲しい情趣に浸って竿を納める。 秋は夕暮れ――と謳った枕草子の言葉は、へらぶな釣りにもまた、如実に当てはまると思う。 これでもし、その日の釣りがそれなりに満足のいく内容であったなら、もう何も言うことはないだろう。 私の住むところでは、その秋ももう末。 間もなく湖面が氷結して今シーズンも終わりとなる(氷を割って釣る人もいるけれど……)。 今年も結局、釣りへ行かず仕舞いとなるかもしれない。

深山 玉川高野竹 8.5尺 朱口巻 漆・螺鈿握り

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昭和34(1959)年、大文字五郎に入門。 そのきっかけは、師の隣に住んでいた叔母の勧めだったという。 別記事「 紀州へら竿系統図を眺めて 」に挙げた当該図の示す通り、同門にはこの世界を代表する櫓聲、一文字がいる。 深山の入門時、この二人は既に独立してそれぞれ一家を成していたわけだが、その影響は師の仕事場に薄からず漂っていたのではなかろうか―― 柔と剛との絶妙な調和を感じさせる深山を振っていると、そんな考えが自然と頭に浮かんでくる。 ここにご紹介する「玉川高野竹 8.5尺 朱口巻 漆・螺鈿握り」は、私が保有する竹竿の中で最も短いもの。 総高野の生地組みで製作された竿の特質は、大きく、「粘り」か「張り」かに分かれるように思うが、この一本はまさしく後者に当たる。 太さはこの長さにして標準的、節間の詰まった外見も高野竹として普通のものだが、どこからだろう、一本芯の通ったらしい性格が滲み出ている印象を受ける。 そして、実際に使ってみると、確かに力はあるけれども、決してその張りが前面に出るわけではなく、しっかり目の穂先を具えた三本継ぎという構成が見事に奏功し、短尺でありながら竿全体が有機的に働いて、美しい弧を描きながら魚を上げ寄せてくれる。 一方、意匠は、朱漆を穂先および玉口に施した口巻。 さらに握りは漆で仕上げ、一見滑り易そうだが、その懸念は握った瞬間に雲散霧消、そこに螺鈿をあしらった粋な造りとなっている。 実用的でかつ風流心にも満ちた、使って心地良く、眺めて愉しい一本である。

宙釣り・底釣り―へらぶな釣りの多様性

同じ魚を釣るにしても、色々な仕方のある場合がある。 例えば、鮎がそうだ。 代表的な友釣りをはじめとして、ころがし釣り、どぶ釣り、流し釣り、餌釣りなど。 ここで注意したいのは、最後の餌釣りは文字通り鮎の好んで口にするものを喰わせるわけだが、他の釣り方では、鮎の体に鉤を引っ掛かる、あるいは餌に似せた毛鉤を用いるというように、鮎との接触の仕方が本質的に異なっていることだ。 そしてそれに応じて、仕掛けや竿の操作等も大きく違っている。 さて、へらぶなもまた、さまざまな釣り方のある魚と言われる。 しかしこちらは、基本的に植物性の餌を使う餌釣りで、仕掛けの構成も本質的には同じ、そして釣りの格好も、座を定め、竿は竿掛けに載せて浮子を見つめ、その動きにより魚の動向を見極めて喰ったら合わせ、取り込む――と一定している。 にもかかわらず、へらぶな釣りをしていると、その風情・情趣が千変万化することに驚かされる。 これが何に起因するかというと、まず、使用する餌の相違、そしてもう一つは、「タナ」、すなわち水中のどの層を釣るかの差異からであろう。 前者については、浮子の素材・形状と相俟って、魚信の質が大きく変化する。 といっても、それは物理的な大きさではない。 しかし、それを捉える釣り人の視覚にとっては、この上なくはっきり感じられるものなのだ。 もう一つの「タナ」に関して言えば、ご承知の通り、へらぶな釣りには、錘のすぐ上に浮子を付けて水面近くを狙うカッツケ、水面下1m位までを釣る浅ダナ、浮子を穂先近くにセットして竿一杯の深さを探る深宙(その様子から、提灯釣りとも呼ばれる)、そして餌を底に置いて待つ底釣りがある。 そうして、どの層を釣るかにより、釣りのリズム、間合いといった時間的な感覚の差異が生まれる。 以上、要素としては二種類に過ぎずとも、それらの組み合わせを考えれば相当な数となり、これがへらぶな釣りの多様性をもたらすと言ってよいだろう。 が、正直なところ、私はその多彩な愉しみを満遍なく味わえる人間ではない。 基本的に、私の採るのは底釣りのみ。 深すぎて底が取れない・水底の状態が悪く値掛かりが頻発する場合、また、夏場など、底釣りの風趣を味わえない時に限り、深宙釣りをするだけだ。 では、この底釣りの風趣とは何か? 私はこう思う―― 仕掛けを振り込み、錘が沈んで浮子が立ち、そのあと餌...

山彦 志らさぎ硬式 10尺 節巻 綿糸握り

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源竿師の一番弟子にして、「天才」と評された竿師が山彦である。 昭和12年、16歳で入門し、同16年に独立。 自らの技量を磨き高めるとともに後進の育成にも注力し、その門下からは、こま鳥、山彦忍月、山彦むらさめ、雀宝などが巣立った。 山彦の特徴は、時代の先見性と、優れた工芸技術を駆使した装飾性の高さにあると言えるだろう。 前者については、へらぶなの大型化の傾向が現れた際、穂先を太めに削り出し、胴に乗せ、竿全体で魚に対応する竿をいち早く世に問うたことは周知のとおりである。 後者に関して言えば、一目で山彦(一門)の手になるとわかる、透き漆で巻きにアクセントを付けた「すかし巻き」、美しくかつ機能的な形状を具え、さらにその表材として竹を張った「竹張り握り」が挙げられよう。 私が所有する山彦は二本、いずれも比較的早期の作で、ここにご紹介する「志らさぎ硬式 10尺 節巻 綿糸握り」は、その内でも製作時期の早いものである。 したがって、まだ穂先は細いが、絶妙の加減に火が入れられたためだろう、魚を掛けた時の絶妙な風合いと同時に、反りの生じることもほとんどない。 山彦らしい容姿の握りは、綿糸を巻いた上に漆を施すことで、滑り難さと、収納時の汚れの落としやすさが兼備されている。 そして、すかし巻きも画像の通り既に顕在。 四継ぎの十尺、短寸切りの生地組みながら、十分に吟味された素材から練達の技量により生み出された一竿らしく、実に美しい弧を描き見せてくれる。 その弧同様、釣り味もまた端正この上ない。 末永く使い続けたい一本だ。