一心竹 特作山城 13.2尺 口巻 籐・乾漆握り

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私が紀州へら竿に魅せられてこの世界に次第に深く足を取られることとなったそもそものきっかけは、「 源一人 煌 10.1尺 口巻 籐・漆握り 」を手にしたことだが、それからさほど間を空けずに続いて入手した「一心竹 特作山城 13.2尺 口巻 籐・乾漆握り」の影響も小さくない。 元々、源一人を入手したのは、「竹竿を一本持ちたい」という程度の気持ちからで、それが叶い実際に使ってみて竹竿の素晴らしさに驚いたことは確かだけれど、そこから直ちにまた食指が動いたわけではなかった。 では何故一心竹を?と言われれば、理由はごく単純、源一人購入の際にその価格一割分の商品券が付けられ、折角なのでこれを利用しようと思ったのだ。 源一人を選択するに先立ち、紀州へら竿にはどのようなものがあるのか一通りは調べていたものの、当然ながらまだほんの上辺を眺めただけ、各竿師の特徴や評価などわかるはずもなく、また再購入の動機も上のようなものだったので、いま一本の選定は主に価格を基準にした。 加えて、源一人が十尺と短いので、少し長めのものがよかろうと考えた。 もっとも、あまり長いと果して使いこなせるだろうかとの懸念があったため十三尺程度のものに的を絞り、その結果見つけたのが一心竹だったのである。 これを初めて振った時、二つの印象を覚えたように記憶している。 まず、流石にカーボンに比べると重い、しかし徒に振り回そうとしなければ決して使い難くはなさそうだ――ということ。 もう一つは、竿を寝かせた時のだらりとした姿に対する違和感である。 第一の印象は、すぐに実際その通りであることがわかった。 片や違和感については暫く継続したものの、ふと気づくといつの間にか全く気にならなくなっており、それどころか偶にカーボンロッドを出した時など、何となくピンと伸び過ぎているように思えてこちらの方に不自然さを感じるようになった。 この感はカーボンロッドとの併用期間を通じて一層明確になっていき、最終的にカーボンロッドをすべて手放すこととなったのである。 もっとも、これらはいずれも中尺の竹竿一般の性質で、別段一心竹に限ったものではないだろう。 では一心竹固有の特徴らしいものは何もなかったかと言えば、確かに感じはしたのである。 しかしそれは、源一人で体験して一驚を喫した、魚が掛かった時に竿が自ら魚を上げ寄せてくれる溌溂さがなく、恰も...

量を求めて失うもの

私は、いわゆる量目釣りにはまったく関心がない。

数量、総重量は勿論、型、すなわち一匹の魚の大きさについてもそれは同じである。

こんなことを書くと、「どうせ、釣れないから、僻み・妬みでそんなことを言うのだろう、」と揶揄されるかもしれない。

それを否定するつもりも、反論する意思もないが……


確かに、物事には、「勝つ」ということが楽しみの源――というものもある。

仮に、それが楽しみの唯一の因ではないにしろ、たとえばスポーツなどはその性格が強いと言えるであろう。

釣りにもまた、人と競って上に立つ、あるいは自分の中で、設定した基準を超えたり、過去の釣果を凌駕したりといったことに、喜びのあることも間違いない。

しかし、それ以外にも、光や風に包まれ、水に臨み、浮子の動きを通じて魚の気配を捉え、そして振るにせよ、掛けるにしろ、竿の風合を感じることにも、大きな愉しみがあり、釣りにおいてはこちらの要素の方がより強いように思う。

上の二つが両立できれば、それに越したことはないかもしれないが、実際にはなかなか難しい――どころか、ほとんど不可能事ではないだろうか。

少なくも、私にはできない。


量を求めると、当然、魚をできるだけ集め、能うかぎり速やかに釣り上げようとする。

そのためには、せっせと餌打ちを繰り返し、脇目もふらず浮子を睨み、魚信を待つ間に次の餌を準備し、掛かった魚はさっさと寄せて取り込む……と、何とも悲しい忙しさに追いまくられることになる。

そんな状況では、周りの自然の風趣を味わう余裕などあるわけはなく、しかも私の一番の目的である、竿の感触を味わうという愉しみがすっかり奪われてしまうのだ。


今日は例会、あるいはそのための釣技の練磨・鍛錬、明日は釣りの風情をのんびりと――といったように、釣行の目的をはっきりと分けて楽しむ人もいるのかもしれないけれど、「競う」ことが少しでも頭にあると、知らず知らずのうちに心もそちらへ引っ張られるのが、人の常であろう。


これらを鑑みるに、結果ではなくその過程、すなわち釣りそのものを味わおうとすると、特に竹竿を使ってそれを志向する場合、「量」を求めることで失われるものが大きすぎる気がする。


今も続いているのかどうか知らないが、以前、紀州へら竿をより広く知り、使ってもらおうという意図の下、「HERA1グランプリ」なる、何とも痛い名称(笑)のへらぶな釣り大会が開かれた。

そうして、名だたる釣り名人の数多の参加をみて盛会裡に幕を閉じた――のはいいが、その後、成績上位者に賞品として贈呈された竹竿が次々とインターネット・オークションなどを通じて売り払われ、主催者や竿師をひどく落胆させた。

これなども、竹竿の愛好と量志向とがそぐわないことを示す一例ではないかと思う。


が、失うものが単に楽しみにとどまっているだけなら、大した問題ではない。

しかし、人としての品位の喪失に関わるとなると、これは決して看過できない重大事と言えよう。


沢山釣りたい、大物を手にしたい――という気持ちが高まると、魚のスレていない機会、すなわち人の行かない場所、人のいない時期に目が向く。

俳優・山村聰氏の著書「釣りひとり」の中に、大釣りの誘惑に耐えられず私有池に入り込み、そこの所有者に見つかって叱責され、「これでどうかひとつ、」と金を差し出して火に油を注いだ話がある。

ある道において一家を成した人でも、こんなことを仕出かしてしまうとは、実に恐ろしい。

もっとも、多少の品位など失くしても何ら痛痒は感じない――という大人物なら、そんなことを懸念する必要はない。

それから、失う人品など初めから持ち合わせていない――という御仁もまた然り。


※上記「釣りひとり」については、以下でWeb公開されています。

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