紀州へら竿の歴史・系統

「へら鮒(別名:ゲンゴロウブナ)」という魚名が初めて文献に現れたのは、江戸時代、幕府の命によりまとめられた「紀伊続風土記」(1806年)や、紀州藩士であった畔田翠山(くろだすいざん、1792年-1859年)が編纂した日本最古の総合水産動物辞典「水族志」などにおいてである。

この頃、へら鮒はすでに釣りの対象として認められていたのだろうが、それを釣るための専用の竿というのはまだ存在せず、チヌ(黒鯛)釣りの竿が転用されることが多かったという。


へら鮒釣り専用の竿、へら竿を世に送り出したのは、このチヌ竿の製竿師として明治15(1882)年に仕事を始めた大阪の竿正で、当初、原型ともいえるへら竿は、黒竹を主な素材とし、穂先には、竿正自らの考案による、真竹を細く割り、それを削って成型する「削り穂」が採用された。

その後、二代目竿正および続く竿五郎が、穂持の素材として、紀伊山地に自生する節間が狭く強靭な高野竹(スズ竹)に注目し、真竹・高野竹・矢竹という三種の竹からなるへら竿の基本構成を確立。

こうして地盤の固まったへら竿の世界は、竿五郎に師事した師光(児島光男)と源竿師(山田岩義)によって一気に広められ、かつ深められることになる。


師光と源竿師は、へら竿の製竿技術を、上の高野竹の産地にほど近い、和歌山県橋本市へともたらした。

そして、この二人を源泉として二系統の水脈が流れ出し、やがて、それらに沿って数多の竿師たちが開花・結実して現在に至っているのである。

そのため、へら竿を語る際、師光系あるいは源竿師系などと言われることがあるが、もう一つ、独立独歩の天才、孤舟を源とする系統も忘れてはならない。

これら三つの系統や各竿師の特徴などについては、追ってご紹介するつもりである。


ここまで述べれば、へら竿が「紀州竹竿」「紀州和竿」などと呼ばれる理由は、もう御察し頂けたことと思う。

そう、師光と源竿師の周り、和歌山県橋本市を中心とした地域に、竿師たちが工房を構えて製作に取り組んだからである。

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